『YOHAKU ep』リリース interview
別れと余白とレクイエム――竹内晃、弾き語り作品『YOHAKU ep』のマジックとストーリーを紐解く
喪失は、決して主役とは言えないまでも、ポップミュージックの世界ではしばしば歌われる機会の多いテーマだ。たった1本のギターや1台のピアノだけを頼りに自分自身の内面と向き合わざるをえない多くのシンガー・ソングライターたちにとっては、とりわけ馴染みの深い題材といえるだろう。例えばそれは、ドラッグ禍で亡くなった2人の友人へテキーラ漬けのニール・ヤングが捧げた『Tonight's The Night』(1975年)であったり、恋人との別離や自身の病、未来を託した自らのバンドの解散といった不幸が重なり、失意の底にあったジャスティン・ヴァーノンが冬の山小屋で精製したボン・イヴェール『For Emma, Forever Ago』(2008年)であったり、さらには最愛の母との永遠の別れを歌った宇多田ヒカル『Fantome』(2016年)であったり――喪失を起点に始まる物語を紡いだ名盤は、古今東西枚挙にいとまがない。
薫風に乗って、この7月、竹内晃のソロ音源『YOHAKU ep』が届けられた。静かに爪弾かれるアコースティック・ギターと、息づかいや喉の掠れさえ鮮明に聞こえてくる裸の歌声。一度耳にすればそらんじて唄えてしまいそうなシンプルかつキャッチーなメロディーは、優しく、親密に、あなたに寄り添うだろう。けれどさらに注意深く耳を傾ければ、この作品もまた“喪失の音楽”の系譜に連なるレコードであることを、すべての孤独な魂は感じ取るはずだ。
竹内は、1996年から青森県弘前市を中心に活動するバンド、creepsのフロントマン。痛快なポップ・パンクと共に誕生し、メロコアブームに乗って全国にその名を轟かせたcreepsが、ブーム崩壊後に足下を見つめ直し、地に足の着いた等身大のロック・バンドとしてふたたび自立するまでの道筋は、2019年時点での最新アルバム『AFTER LIGHTS』(2014年)のレヴューに詳しい。ここでは『AFTER LIGHTS』以降、確固たる足取りかに見えていたcreepsの活動休止、パートナーとの別離、そして暗闇の中でもがき続けてきた実弟との死別――といった困難を越え、喪失を連れだって一歩ずつ前に進んできた竹内が、ある意味では意図せず生まれた『YOHAKU ep』までいかにして辿り着いたのか、その軌跡について、シンガー本人にじっくりと語ってもらった。(取材・文/船越太郎)
creepsが活動休止を発表したのは、2016年11月。『AFTER LIGHTS』のリリースからおよそ2年が経過していた。地元で行われた近藤智洋(GHEEE、ex.PEALOUT)、高橋研(中村あゆみ「翼の折れたエンジェル」などの仕事で知られるプロデューサー/SSW)を迎えたライブのステージ上でのこと。ファンから見れば唐突に思えたMCでの休止宣言も、バンドや竹内個人を取り巻く状況を考えれば致し方ない決断だった。
「活動休止にはいろんな理由があって。大きかったのは、個々の音楽に割ける時間が少なくなってきたこと。『今日より明日の方がいいバンドでいたい』というメンバー共通の目標を実現できる状況じゃなくなってきた。というのは、メンバーに子どもが生まれたり、自分も仕事で大きな案件を抱えて大変だった中、最終的には弟が死んだことで、残された親も弱ってしまって。はっきり言って『これはバンドをどうこうできる時期じゃないな』と」
creepsとして、肩肘を張らない自然体のバンド・アンサンブルに辿り着いた『AFTER LIGHTS』。そのリードトラック「世界はそっと美しい」で、竹内は「結末を知ったって 後戻りはできなくて あの場所まで歩いたら きっと新しい景色 何もないよ わかっているさ だけど世界はいつだって ときどきそっと美しい」と歌った。そこには、人生のとある一場面でフィラメントがまばゆく焼き切れた後、焼け野原のなかで自分を立て直し、ふたたび人生を肯定して歩を進めた者だけが持つ一本筋の通った強さと優しさが宿っていた。しかし現実は小説より奇なり。同作のリリースと前後し、竹内はプライベートでパートナーとの離婚を経験。さらに、メンタル面や経済面でさまざまな重荷を抱えていた実弟を取り巻く状況が、いよいよシリアスになってきた時期だった。つまりトンネルの出口に見えた“光”=『AFTER LIGHTS』は、実はまだ底の見えない暗闇の中でもがきながら産み落とされた作品だったのだ。竹内は当時を「弟の件がピークだったから、最後のつもりで作った。弟がどうなるか分からない状態で、離婚も重なって。自分でもよく作ったなと思う」と振り返る。最後の作品。リリース後のバンド活動休止が必然だったことを考えると、この言葉の持つ意味は果てしなく重い。
竹内は先の見えない闇の中で、いかにして“音楽”を取り戻したのか。
「バンドが止まった後、音楽を聴いてはいたけど、今度は仕事で消耗していって。このままだと活動を止めた意味もないし、自分の人生としてダメだと。弟が死んで、すぐに祖母も一気に参っちゃった。1年ちょっとで亡くなったんです。でも、祖母から最期に、病床で何度も『頼むね、今までありがとう』と声をかけられたとき、自分が人間らしく生きるためには音楽をやることが一番いいんじゃないのかと。もう一回ゼロになって、いろいろやってみようと思ったんです」
さらに活動再開を後押ししたのは、creepsが20年以上の歩みで手にした、かけがえのない盟友やメンターたちとの絆だった。
「アサイラムの浩さん(弘前ロックシーンの生き字引的存在で、『AFTER LIGHTS』のジャケット写真に写るアサイラムの店主、齋藤浩。20代の竹内は齋藤が経営するCDショップで働いていた)が、『今の仕事は辞めたほうがいい。お前の人生なんだから音楽をやった方がいいよ』と助言してくれて。山口洋(HEATWAVE)さんなんか、仕事を辞めるときに弘前の職場にわざわざ来てくれて、『アキラどうしたんだ、また歌えよ。俺は待ってるから。お前とアルバム作るっていう約束もあるし』って。山口さんは翔一(creepsベース、成田翔一)とアイルランドへ二人旅をしてるんだけど、『あいつは何も言わないけど、お前がまたやると言う時を待ってるから。音楽をやるしかないんだよ』と教えてくれた。本当にありがたい話で、このタイミングを逃しちゃいけないと思ったんです」。こうして2018年3月、バンドの活動休止から1年半の空白をおいて、竹内はソロ活動を再開させた。
「再開してからは、声をかけてくれたライブは全部やったと思う。東京でも5回くらいやったし、全部で30~40本はやった。最初の何回かはリハビリのようなものだったけど、復活して気付いたのは、前よりも気持ちが強くなった。腹が据わった。そんなにダメなライブをしなくなったかな」
同年4月、creepsのドラマーである小田島哲雄のバンド、SECOND LINEと共演する機会があった。「小田島さんは久しぶりにライブを見たと思うけど、嬉しかったのか、曲を聴いて胸がいっぱいになったのか、バックヤードに来て号泣して。自分のいろんな背景を知っているからだとは思うけど、嬉しいよね、メンバーが泣いてくれるって」。こうして竹内は今度こそ本当の〈AFTER LIGHTS〉を求め、一歩一歩確実に、喪失の分だけ強さをまとって、ここまで前進してきた。
人との繋がりの中で音楽を再開し、自信を取り戻していった竹内。本稿の主題である『YOHAKU ep』もまた、こうしたサイクルの中から偶発的に生まれた作品だった。
「ソロで音源を出しておこうという考えは、実はあまり無かった。でも八戸市に新しくできたライブハウス『For me』店長の田村さんと、エンジニアの二部洋平君(同市のバンドInterloperのVo&G)が『録りたい』と言ってくれて。今年の1月、去年ライブで歌っていたような5曲を1日で一気に録った。歌とギターは別々に録ったけど、パンチインもほぼなくて1発録り。自分としては『八戸でこんな音源が録れるよ』という宣伝の気持ちもあった。でも4月に仮ミックスを聴いた時に、思っていたよりも仕上がりが良くて。『AFTER LIGHTS』から5年も空いてたし、ソロ音源は2枚のデモしか無かったから『リリースしてもいいかな』と、CDをプレスすることに決めたんです」。ソロでの活動再開後、各地でのライブを重ねる中で、竹内をもっともサポートしてくれたのが八戸市のシーンだったという。そのコミュニティーが期せずして『YOHAKU ep』を生んだのだ。
偶然と必然の産物である『YOHAKU ep』。シンプルな弾き語りの5曲からなる本作には、一見して質素な外観とは裏腹に、現在進行形で成長を続ける“アーティスト=竹内晃”のきめ細やかなこだわりが、音づくりの中にみっちりと詰まっている。
まず、アコーステックギターの音色に多少なりとも馴染みのあるリスナーは、ぜひ本作のサウンドに耳を澄ませてみてほしい。ギターは、現在のcreepsに大きな影響を与えるアイルランドのシンガー・ソングライター、ダミアン・ライスが愛用する同国のハンドメイドメーカー「ローデン」の廉価ブランド「アヴァロン」。廉価ブランドとはいえ、同国のエド・シーランら一流ミュージシャンから評価の高いローデンの設計をまっすぐ受け継いだアヴァロンは、マーチンよりもさらに高音のきらびやかさ、繊細さが際立ったキャラクターと言えるだろう。そのアヴァロンに対し、本作のサウンドの要となるのが、竹内が2007年以来、試行錯誤を経て辿り着いた“指ストローク”の演奏スタイル。通常はピックを使ったストローク、もしくはピックや指でのアルペジオ奏法が一般的だが、竹内が見出した「指でのコードストローク」というスタイルは、その隙間を縫う“目から鱗”の奏法だ。
「どうしてもピック弾きの弦に当たる感じと、硬い音に違和感があって。部屋にいて、指でアコギを弾いた時の音、その柔らかさだったり、倍音の出方が一番しっくりきた。尊敬する山口洋さんが指でストロークしていることからも大きく影響を受けています。自分の場合は親指でストロークしてるけど、同じように弾いてる人がいないので、これはこれで自分の個性になっているのかな。アラバキロックフェスのキャンプファイアーライブに出た時はまだかなり酷かったと思う。そこからなんとなくピック弾きだったけど、活動再開からは“指ストローク”で続けてきて、ある程度は形になった」。アヴァロン本来の粒立ちの良さやきらきらとした高音域のピークは、柔らかい親指の腹が“こする”ように弦を弾くことでぐっと丸みを帯び、きりっとしたサウンドの輪郭やアタックの角が程よく中和される。奏法による暖かみと楽器のプレゼンスが絶妙なバランスで同居した、耳に心地のいいアコースティックギターの鳴りは、他のギター弾き語り作品ではなかなか出会えない、本作ならではの聴きどころとなっている。
もちろん録り音やミックス、マスタリングにもこだわった。マスタリングは、まずはトアイアルとしてオンライン経由で3人のエンジニアにトラックを投げかけ、名前を伏せた状態で3者の仕事を聴き比べた結果、最良と判断したエンジニアに仕上げを依頼する、という方法で行われた。最終的に依頼したのは、creepsがGOING STEADY時代からメンバーと共演経験のある銀杏BOYZの諸作を手掛けたエンジニアだった。「最後まで迷ったもう1人のエンジニアは、キリンジなんかを担当してた方だった。翔一やcreepsの音響スタッフはその方のマスタリングが『一番いつもの晃さんらしい』と言ってたけど、結局、選んだマスタリングが一番アナログ感があった。アナログコンプレッサーを通したような音というか。縁のある銀杏BOYZのエンジニアを選んだことには運命めいたものを感じました。マスタリングの要望としては『奥行きが見えて立体的な音』。だからこそ、レコーディングでもあえて二部君にヴォーカルのリヴァーブをやめてもらったくらい。ライブハウスで録った感じにはしたくなかったし、ライブ感も出したくなかった」
今、あなたが耳にしているであろう『YOHAKU ep』の親密な響きの正体が、多少なりとも垣間見えたのではないだろうか。
最後に『YOHAKU ep』の内容に入る前に、本作の制作と前後して竹内が聴いていた/影響を受けた音楽のリストに触れておきたい。「ハードコア・バンドNICE VIEWでの活動でも知られるテライショウタさんのソロ名義、Gofishの『肺』って曲が去年1年すごく好きで。今作ってる曲は影響を受けてるかもしれない。歌詞の内容や曲調は違うけど『これは(Gofishへの)アンサーだな』という曲もあるくらい。あとはゆらゆら帝国とか川上つよしと彼のムードメイカーズでも歌ってるシンガーで、元TICAの武田カオリさん。ロックステディみたいな『Someday』って曲をラジオかなんかで偶然耳にして、これもよく聴いたな。最近見た中では、友部正人さんのライブが凄かった。一見、佇まいは小ぢんまりとしてるし曲の構成もシンプルだけど、すごくオーラがあるというか、魅力を感じた。かっこいいと思ったね。あんな風に歌っていたいな。折坂悠太さんがアサイラムでやった弾き語りも衝撃的だった。あとは昔のステレオフォニックスやフィーダーのライブ映像をYouTubeで観たり、もちろん(縁のある)山口洋さん、高畠俊太郎さん、近藤智洋さん、古明地洋哉さんの活動にも常に刺激を受け続けてる」
シンプルな弾き語り作品の奥に見え隠れする、優れたリスナーとしての竹内の懐の深さ。それは、本作のジャケット作成においても同様だった
「大好きなアルバムであるレイ・ハラカミ『lust』のジャケットのイメージから離れられなくて。もしくは、ジャズレーベルのECMの完成されたジャケットの世界観。あとは初恋の嵐のシングル『真夏の夜の事』の印象も残ってたかな。夕暮れの街並みで、灯りが少し灯るような時間帯のイメージだった」
ここまでの経緯から、『YOHAKU ep』が決してコンセプト重視の作品でないことは分かってもらえただろう。しかし本稿の序文でも触れたように、本作はあきらかに“喪失の音楽”の系譜に連なるレコードだ。先に種明かしをしてしまえば、このずっしりとした手応えは、ラスト2曲のレイクイムの影響によるところが非常に大きい。別れた妻へ歌ったラブソングや、“再出発”をテーマとするタイトルトラックもまた、喪失の色調をますます豊かに補完する。しかしそれぞれにシリアスな側面を持った楽曲群の中にあって、オープナーの「night melody」だけは、異色とさえ呼びたくなるほどのリラックスムードでEPの冒頭を軽やかに彩ってくれる。
「自分がソロ活動を始めた2007年ごろから歌ってる曲。今回EPに収録しようと思ったのは、この歌を好きだと言ってくれる人が多くて。曲も短いしオープニングにはちょうどいいかなと思って」。この曲が作曲された2007年は、creepsがパンクの喧騒を抜けてリボーンを遂げた記念碑的アルバム『カンテラ』をリリースする2年も前の時期。『YOHAKU ep』の中では最古の、2分にも満たない小曲。ここには、例えば「風に揺られて舞う 心に咲いた花 夜の窓辺に響く 心に咲いた歌」といった落ち着いた情景描写や、リラックスした心持ち、それに続く人懐っこいハミングに象徴されるように、その後のcreepsが背負うことになる運命の重い影が、まだ見当たらない。
EPの全体的なカラーは、ダミアン・ライスの名曲「Amie」のイントロのコードを引用した次のタイトルトラック「余白」からようやく滲み始める。この曲の空気が『AFTER LIGHTS』の世界観と似ている、と個人的な印象を竹内に告げると、「実は『AFTER LIGHTS』を録っている最中に離婚したんです。録ったのが2月で、リリースと離婚が同じ8月。「余白」ができたのは、その年をまたいだ元旦か2日くらいだから『AFTER LIGHTS』の流れかもしれない」とまさかの告白。たしかに、吐く息の白さや、雪のちらつく冬のきりっとした空気を思わせるセンチメンタルなメロディーは、初夏の宵めいた涼やかさの「night melody」から、世界の体温がだいぶ低下したことを暗示している。
「白いスペースの中に、好きに何かを書いていくとする。でもそのスペースの広さは初めから決まっていて。自分の人生もそうだけど、好き勝手にやってきてたものの絵はなかなか完成しなくて。いっぱい書き足したり塗り足したりしているうちに余白が無くなってくる。でもまだ書き続けなきゃいけない、という再出発がテーマの歌。でも、去年1年間やってきたライブの中で自分が1番歌いたかったのがこの曲で、なおかつ多くのミュージシャンの人たちが食いついてくれたのもこの曲。『8月のbirthday』(『カンテラ』収録の重要曲)と一緒で〝降りてきた〟曲。真っ白な状態でできた。というか、今回のEPに入ってる曲はほぼ数分でできた曲ばかりかもしれない」
その「余白」の後に完成したのが、本作唯一のストレートなラブソング「雪が降る」。竹内が赤裸々に語る。「まさに妻が出ていった時の歌ですね。僕たちは一時、たしかに未来を見据えて一緒になった。それがお互い、見ていたものが違ったことが分かって別れることになったけど、自分と一緒にいたことで、一瞬でも彼女が理想の景色を見れたのなら…最後までそういう景色を見せられなくて、申し訳なかったという思いが、ものすごくストレートに出てる」
本稿の取材において、竹内との間で「ロックとは何か」をめぐって2人で考え合う場面があり、竹内は「ロック自体は嫌いじゃないけど、竹内晃がロックかと言われたらあまりロックじゃないと思う。今回の音源だってロックじゃない」と自身のロック観を語ってくれた。仮に「Rock Around The Clock」を起点とする65年間をロックの歴史とするなら、ロックの現在地は、あらゆる矛盾した価値観の束が共存する「多様性」のタームにあると言えるだろう。山下達郎がeastern youthに夢中になるように、カリフォルニアの陽気なスケーターであるトミー・ゲレロがジョイ・ディヴィジョンの絶望にどうしようもなく心惹かれるように、トム・ヨークとフリーが出会い、バンドを組んでしまうように。そこから翻れば、ジョン・レノンが失われた週末で『ロックンロール』(1975年)をものにしたようなスタイル、つまり人の情けなさやふがいなさも含めてあけすけに表現することでロックたりえる、紛れもなくオーセンティックなロックのアティテュードが、本作には貫かれているのではないだろうか。
ここからEPはレクイエムの極圏に分け入っていく。その入り口となる「asamiya」は『AFTER LIGHTS』のラストナンバー。オルタナ・カントリー的な風合いの原曲は、まさに〝生まれ変わった〟creepsを象徴するフィーリングを湛えたナンバーだったが、『YOHAKU ep』においては、弾き語りで再録されることで、楽曲の芯にあるエモーションがより鮮明に際立っている。
「八戸市のROXXというライブハウスにいた仲間が事故で若くして亡くなって。葬儀に参列した後、ROXXで歌う機会があったときに、どういうライブをやったらいいのか分からなくなっちゃった。今でも覚えてるのは、ライブハウスに向かう道中、六戸町を過ぎたあたりで急に頭に曲が浮かんだ。タイトルは後付けだけど、歌詞もメロディーも全部一気に浮かんだんです。それを忘れないように車内でずっと繰り返し歌い続けて、会場に着いてバーッと書いた。こんなことは初めてだった。ソロ活動の中でもずっと歌ってきた曲。ほぼほぼ1曲目に歌うし、セットリストから外したことはないんじゃないかな。レコーディングでも1曲目に録りました」
歌詞にも現れる「僕が知ってるのは 君がくれた世界 小さな ちっぽけな だけど 本当のこと」といった静かな確信を貫き通すように、腹の底から真っ直ぐな歌声を響かせる『AFTER LIGHTS』のバージョンに比べ、本作では隣りに座る仲間へ直接語りかけるような、ささやきにも似た親密なボーカルが特徴的だ。この曲を大切に育んできた竹内の思いが、なんのフィルターも通さずストレートにこちら側に伝わってくる。
取材後半、『YOHAKU ep』を語るにあたっては避けられないラスト2曲のテーマについて話が及んだとき、竹内はあっけらかんと「そういえばレイクイエムがふたつ入ってるんだな。しかも並んだんだ」と語った。本人にとって『YOHAKU ep』を覆う〝喪失〟の空気は自覚的なものではなかったのか――と思った矢先、2016年の11月に亡くなった実弟へのメッセージを綴ったラストナンバー「so long」について、衝撃的な事実を告げられた。「この曲が完成したのが昨年の6月6日。それで『YOHAKU ep』のCDのプレスがあがってきたのが、そのちょうど1年後の(本稿の取材日である)今日6月6日。弟は36歳で亡くなったんです。実は〝6〟は竹内家的にはいい日じゃないんだけど、弟が好きだった数字でもあって」。これを運命と言わずして何と形容しよう。
〝シンガー竹内晃〟最大の魅力は、嘘偽りのないエモーションの純度と熱量の高さにある。今回の取材で「批判的なことでも結構なので、好きに、思ったままのことを書いてほしい」と懐の広い要望を受けた。あえてそこに乗るならば、たとえば竹内の作品にはテンションコードもポリリズムも登場せず、作家的な観点から見れば簡素極まりないソングライティングとは言えるだろう。けれどそれらの高度な技巧が登場しないのは、嘘偽りのないエモーションを思い切り楽曲にぶつけるためには、そのような技巧はむしろ余剰な装飾でさえあるからだ。シンプルな4コードの繰り返しだけで作られた「so long」はその真実を象徴するだけでなく、「音楽で一番大事にしているのは〝グッドメロディー〟」と語る本人が、そのメロディーを差し置いてまで〝初のスポークンワード〟で大切なメッセージを、エモーションを伝えようとした姿勢に現れている。
「本人は10年間すごく苦しんできたと思う。仲直りせずに別れちゃったことに、後ろめたさじゃないけど、伝えられなかったこととか、兄としてもっとこうしておけばよかったなとか、小さなことだけどずっと引っ掛かってたことがあって。そういうものを全部書いて、出棺の時に手紙を入れたんです。歌詞はその後、ちょっと気持ちが落ち着いたころに浮かんできて。最初に書いた時の歌詞はブログに載ってる。天気のいい11月の日だったな。情景を覚えてる。家で曲を作ってるときに(歌詞が)長くてメロディーにならないから、(語りのように)歌ってみたら意外にいいなと」
竹内がソロ活動を再開させた2018年の暮れ、弘前市のアサイラムで行われたワンマンライブを目にする機会があった。その日、竹内が「最後まで歌えなかったらごめんなさい」と切り出して歌い始めたのが「so long」だった。感情が高ぶり、何度か歌えなくなりそうな場面でも持ちこたえていた竹内だったが、楽曲の終盤「いつかまた so long」と語りかけるパートで涙腺が崩壊。声を詰まらせながら、ありったけのエモーションを込めて演奏する姿が印象的だった。本人は「あの日のライブは全然良くなかった」と謙遜するが、ありったけの思いをぶつけられた聴衆の一人として、芸術に必要なものとは何か、改めて深く得心したライブだった。
最後に、シンガー本人による『YOHAKU ep』の自己批評で本稿を締めくくってもらおう。
「音楽で大事なことは最終的に気持ち、自分自身なんじゃないかな。プレスが届いて、改めて自分で聴いたとき『45歳にもなってこの作品を作れる自分もなかなかだな、でもしょうがない、自分はこうだから』って。まるで10代みたいな作品。これを今でも、狙いじゃなくリリースできる自分はけっこうやばい…本当は音楽的な部分で褒めてほしいけど、なかなかうまくいかないものだね(笑)」
船越太郎
弘前市出身。地元の高校を卒業後、進学で上京。タワーレコードに入社し、ヒップホップ、R&B、ソウル、レゲエ、テクノ、ハウスなどの売場を担当後、ブルース/カントリーのバイヤーを経て、国内のインディーをジャンル全般に渡りバイイング。その後、自社のeコマースサイト内の音楽ニュース編集に携わり、音楽レビューサイト「Mikiki」のローンチ・運営にも編集者兼ライターとして携わる。2015年にUターン。現在は地元新聞社に記者として在籍中。
0コメント